これは、アイルランドで起った飢饉のさなかで荷車で運ばれる遺体が描かれた絵です。当時の新聞『the illustrated London news』の記事です。 飢饉は 1845 年頃に起りました。原因は、ジャガイモの疫病が流行し、ジャガイモがほとんど獲れなくなったことです。1846 年にはジャガイモの 9 割がやられて腐ってしまいました。そして多くの死者が出て、アイルランドから脱出する人がが続出しました。これらのことから、この飢饉は『potato femine(ジャガイモ飢饉)』や『grate famine(大飢饉)』などと呼ばれています。
下の地図の中で、緑の部分がアイルランドです。
なぜ、ジャガイモが不作なったことで、ここまで大きな飢饉になってしまったのでしょうか。主な原因を紹介します。
ジャガイモは痩せた土地でも簡単に栽培できたので、人々のほとんどはジャガイモを栽培していました。 また、当時のアイルランドはイギリスの植民地的な状態でした。小麦を育てているとイギリスに地代を払わなければ行けませんでしたが、ジャガイモでは地代を払わなくても良かったのです。
アイルランドではジャガイモの品種の中でも、痩せた土壌、少ない肥料でも育つ 1 種類のジャガイモだけが普及していました。しかし、その品種がかかりやすい病気が流行すると同じ品種のものは全滅してしまいます。
穀物の価格を維持する穀物法により、アイルランドに食糧を安く送ることはほとんど行なわれませんでした。さらに、アイルランドからの穀物の輸出は規制されなかったので、多くのアイルランド人が飢餓で苦しんでるにも関わらず、穀物がどんどんアイルランドから失われていきました。
先ほども書きましたが、当時のアイルランドはイギリスの植民地的な状態で、経済的に弱い立場にありました。 この飢饉では、飢えそのもので死んでしまった人よりも、飢えによる栄養不足と疫病の流行が重なったことにより病気で死んでしまった人たちが多いようです。また、大飢饉の間には大量の移民(難民)が新天地のイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどを目指してアイルランドを去って行きました。その数は 150 万人に及ぶとされています。 こうした飢饉、病気による死者や移民によって、アイルランドの人口は激減してしまいました。
最後に、飢饉の記念碑を紹介します。
飢饉の犠牲者を追悼する記念碑(イギリス・リバプール)
飢饉の記念碑。食べ物がなくやせ衰えた人々が足を引きずって歩く姿を表しています。(アイルランド・ダブリン)