1930 年代半ばまで、日本では女性が自転車に乗ることは不適切とされていました。映画「二十四の瞳」では、女性教師が自転車に乗ることで地域の住民から反感を買う描写があり、1934 年の「読売新聞」では女性が自転車に乗ることが健康や結婚生活に悪影響を及ぼすとの主張がありました。
「自転車に乗る女」に関する概念は、女性が自転車を跨ることで生じる開脚の官能的な動作に起因しています。このアクションは、当時の人々にとって新奇で魅力的であり、同時に性的堕落のイメージと結びつけられていました。また、歴史的には「馬に乗る女」も健康面で問題視されることがあったが、乗馬に関しては横向きで足を閉じたまま乗ることができる一方、自転車は必ず跨がなければならないため、女性が自転車に乗ることは特に厳しく否定されていました。
また、男性たちは自転車に乗る女性を、当時のエロティックな象徴である電話交換手や芸者と同じように見ていた可能性があります。特に、芸者は性的な魅力を持つ存在として認識されていましたが、電話交換手は社会的地位の低い職に従事する女性として見られていました。明治期の日本において、電話交換手として働く女性は、彼女たちの美声や魅力を求める男性からの電話が絶えない状態でした。これは、男性たちが女性の職業を性的な対象として捉えていたことを示しています。実際、多くの男性が電話交換手の美声を求めていたため、採用基準が厳格になり、男性の電話交換手は廃止されるなどの対策が取られました。これらの事実は、当時の男性たちが特定の職業に従事する女性に対して持っていた性的な関心や偏見を示している。
しかし、1930 年代後半にはメディアにおいて女性の自転車乗りを肯定的に取り上げる記事やイメージが増えてきます。特に戦時中、女性が自転車に乗る姿は国のために貢献する健全なイメージとして描かれるようになります。そして三浦環という女性が自転車で通学する姿が「自転車美人」として評価され、一部の女性にはファッションやステータスの象徴として自転車が浸透していった。また、女性のパンツの着用も自転車の普及とともに受け入れられるようになってきました。
1940 年代に入ると、新聞や雑誌は自転車に乗る女性を健康的な美として描き、前の時代の否定的な見解は覆されるようになる。戦時下では、自転車乗りの女性は国のために努力する姿として描かれ、そのイメージは大きく変わりました。