第2次世界大戦後のアメリカでは、国内に大量の穀物が余り、深刻な食料余りが起りました。戦争中は兵士の食料として穀物が大量に作られ、海外の前線に送られていましたが、戦争が終わると作りすぎた穀物の行き場がなくなったのでした。アメリカ政府は 1954 年に「余剰農産物処理法」を制定しました。目的は、アメリカ国内で処理しきれなくなった大量の農産物を処理するため、そしてアメリカの農産物の輸入市場を拡大するためでした。
これにより、穀物は戦後のヨーロッパやアジアの飢餓解消という名目で海外に売り払われていきました。穀物の代金は長期の低金利ローンで時間をかけて返して良いという好条件でした。海外に安く穀物を売り払った理由は、ソ連との冷戦下の同盟国の強化、途上国等に対する食糧援助をすることによって政治に干渉すること、などもありました。どちらの条件にも日本は含まれます。
戦後の復興途中で食糧不足だった日本も、アメリカから低金利のローンで小麦を輸入しました。もちろん、アメリカが日本の小麦の消費量を増やすため計画した事業を行なうことが前提でした。栄養指導車は、キッチンカーと呼ばれ「粉食による栄養改善運動」という名目で全国を回り、小麦を使った料理を主婦に普及させました。車の中にはキッチンの設備が整っており、指導員が乗りこんで料理の実演指導を行ないました。
今では信じられませんが、当時は慶応大学の教授小麦が「米を食べると馬鹿になる」説を唱え、多くの人に影響を与えました。小麦を食べるアメリカや欧米に戦争で負けたことも、米食に反対する理由の一つでした。学校給食では、パン食が主流になりました。日本の子供達に小麦に慣れ親しでもらい、生涯を通して小麦を消費してもらうことが目的でした。他にも粉食の奨励運動は、新聞広告、テレビ、ラジオ、産業見本市への出展、「アメリカ小麦杯」というゴルフ大会など、多く行なわれました。
アメリカの戦略は成功し、今では日本は小麦の輸入大国となっています。そして、日本食を崩壊させた原因として当時の小麦の輸入、粉食の症例運動は非難されています。しかし、戦後の復興の途中の日本は、食糧不足から脱しきれずに、多くの人が栄養不足でした。小麦の輸入は当時の日本にはかなりのメリットがあったことも事実です。